utsurobune’s diary

短歌を発表してます。

一人百首:51

無免許である。免許といっても医師免許でも一級海技士免許でもない。運転免許である。困ったと思うこともないが、あったらあったで楽しいのかもしれない。

あらゆる交通術の中で一番好きな移動方法が徒歩である。自転車をなくして以降、むちゃくちゃ歩く。バスで行ける距離でもわざわざ歩く。やることが大してないからできるものである。考え事をするときも歩く。これは前書いたことだけどもう一回書く。それくらい歩くことが身近なのだろう。

歩く上に走る。

昔からスポーツも体育も大嫌いだった僕だ。中でもマラソン大会は地獄だ。息が続かない。わき腹が痛くなる。ばてる。ろくなことがない。そう考えていたが、ある時急に走ろうと思い、ジャージも何もなく走った。それ以来やみつきである。

走るのは他の競技に比べてルールも何もない上に一人でもできる、という点がポイントだろう。おまけに痩せて気持ちがいい。ただ、多少のコツは必要だ。それを教えよう。①筋トレしてから走ろう:どうせ運動するなら筋トレをしてから走ったほうがいい。ただし軽めに。この順番は筋肉がつく方法で、逆にすると痩せやすいらしい。

②軽く栄養をとってからのほうがいい:一気に走り始めるとすぐばてるし低血糖になるとかなり危険な目になる。おすすめはバナナ。ちなみにわき腹が痛くなったときは痛いほうを軽く伸ばすと和らぐ。

③呼吸に気をつける:走ると胸のあたりが苦しくなるという人は呼吸を意識するといい。息を吐く時間をゆっくりすると肺の中の空気が抜けて、息をより多く吸い込むことができる。

④音楽は大事:好きな曲のプレイリストによってモチベーションが全然違う。マニアックなものはおすすめせず、大ネタを中心にするほうがやるきがでる。ちなみにこの動画を見ると誰でも運動したくなるというものがこちらである。

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なぜ走るのが楽しいかを考える。走るのは苦しい。でもそれは克服できる苦しみだ。普段生きていると理不尽で、しかもなにも対処できない苦痛がじわじわと自分たちを襲う。それに対して走ることで感じる苦痛はストレートなものだ。そしてそれを乗り越えるという喜びを感じることができるのだ。

ランナーズ・ハイというものがある。この状態になろうと思ってなれるものじゃないが、一度経験するとものすごく気持ちいい。歩くリズムが一定になって、姿勢が正しくなる。流れてゆく景色がゆっくりになる。呼吸が苦しくなくなる。最高である。

この前も走った。少し寒いが徐々に体があったまってくる。見慣れた場所、懐かしい場所を通り過ぎる。車の通りが少ない道に入る。スピードを上げる。イヤホンから流れる曲が変わる。ロック・ナンバーである。歌詞に思いをはせる。bpmの上昇に合わせてスピードを高める。

次の瞬間

小学5年生以来久々に思いっきりすっころんだ。

前受身をとったからよかったものの、ひざにはかさぶたが残る羽目になった。

夜道には気をつけよう。

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走りたく なるとき普段なら聴かない リンダリンダを 聴いているとき

一人百首:50

とあるミュージシャンのジャケットを見たことがある。イケイケな風貌の彼らが横たわって談笑しながらバー的なところで酒を片手にオセロをしているというものだった。当時オセロ二アというゲームでオセロをしたものから言わせると違和感がうっすらある。

人生ゲームにしてもなんにしてもやるまでが楽しいのである。わいわいがやがややっていく中で角をとった!とか俺の地域だとこのルールあったし!とかをあの笑顔でやっていると思うと笑える。

似た感じで言うと街中の看板に描いているイラストにそれに似たものを感じる。核家族が描かれたイラスト。全員が笑顔のパステルカラーで描かれたもの。そこでは空気がないように誰もが幸せそうだ。

あの場所がガンダーラなのかもしれない。

7月に 鳴るシンセサイザーのような いいこともたぶん あるよそのうち

一人百首:49

昨日、初めてブログをお休みした。

某用事で人とだらだら11時ごろまでしゃべり、その話づかれでできなかったという流れだ。

個人的には毎日更新を目標にしてたので残念だ。俺のようなド暇人でも1回休むぐらいだからほぼ日刊イトイ新聞は凄いなと思った。50回を前に記録達成ならずは無念である。

ただ前々からいつ途切れるんだろうとは考えていた。なんせ執筆者のポンコツっぷりは有名だ。一番危惧しているのがネタ切れである。なんせ引き出しが少ない。よく見たら側は大きめの割りに引き出しは一つだけだ。しかも上にかぱっと開くタイプのものだから見る人が見ればゴミ箱である。中に何が入ってるの?と問われればごみである。

だから事実上ごみとごみとを組み合わせたリサイクルに近い。使い終わったダンボールとフィルムケースでできた車、みたいなものがこのブログである。

わが子のように見てくれたら幸いである。

奇跡的 なにその響き Iカップ それより普通に ラッセンが好き

 

一人百首:48

紙の中の人について話す。

子どものころの砂場でどうやって遊んだかでその人が分かる、というものがある。僕はそもそも近所に砂場がなかった。だから成り立たない。でも子どものころあんまりスポーツは好きじゃなかったと思う。小5・6くらいになってドッジボールをやるより以前はインドアな性格だったはずだ。

女兄弟がいたこともあるだろう、部屋の中にはやたらぬいぐるみがあった。そのぬいぐるみを使ったお話を作るのが好きだったかもしれない。男子だったら仮面ライダーとかウルトラマンを対決させるみたいなのがあったろうが、それだけだと自分の持っているおもちゃだと足りないという理由もあったのだろう、ダニの温床となるぬいぐるみたちで遊ぶことが多かったと思う。

その派生系の話は兄弟だけじゃなく、友人たちにも進出していった。一番よく遊ぶ友達とはレゴを使って遊んだ。組み立てるとか建築面の楽しみもブロックにはあったのだろうが、僕は全然だめだったから人形を使った遊びが中心となった。子どもによっていろんな遊び方がすることができるという意味で優れている。愛知にテーマパークができたからいつか行きたい。

学校の友達にもその遊びは広がっていく。下校の帰り道、話す内容よりも僕たちはそっちの方が好きだったのだろう。つまり子どもの想像力を使った遊びだ。アクションがないアドリブのごっこ遊び、というものだったんだろう。この遊びは親友だけにしかやらなず、同じ中学に行く機会がなかった僕はその遊びを中学でやることはなかった。

ただ、一人でもこの遊びは続くことになった。ぼーっとしているときには自分は空想の中で遊ぶようになっていった。家にかえると登場人物の設定を書き、学校に行くと脳内で物語は進んでいった。ジャンルは基本的にはSFだ。ただ文章力がなかったために言語化はなかった。インディアンの口伝えの話みたいなものである。

中学に行くにつれ、この遊びをやめたくなっていった。この遊びを共有する友達はいないし、この遊びがないためにコミュニケーションは取れなくなっていくのだ。しかしセカイ系ともいうべき自分が絶対でいることのできるこの遊びの魔力は恐ろしいものがあった。

その当時はこんな遊びをしているのは自分だけだろうと思っていたが、後にこの空想遊びをしている人が大勢いることがわかってきた。人によってその形態は異なってくるが、有名どころでいうと麻雀小説でブレイクした色川武大は自分の経験をベースに書いた「狂人日記」で相撲の力士をカードに書き、さいころを振って勝敗を決め、彼らの人生をノートに書くようになったという自分の幼少期を描いている。主人公は幻覚に悩まされている精神病患者。小説のラスト、主人公がヒロインに逃げられると彼は迫り来る死の中で、再びこのカードを書き始めるのだ。この小説のほかに野球で同じように空想の中で遊んだという小説がどこかにあったが忘れてしまった。

僕の聞いているラジオDJも不登校のころにパワフルプロ野球で作ったキャラクターの背景を考える、というものがあった。ノート1冊分びっちり書き込んだものの、家を出るタイミングで捨てたという。また女優の吉田羊さんも中1までままごと好きだったとか。

伝説の域になってくると、ヘンリー・ダーガーが挙げられる。彼は19歳から81歳で死ぬ半年前まで挿絵が含まれた絵本を書き続けた。その名も「非現実の王国で」。子供奴隷制を持つグランデリニア国とアビエニア国との争いの物語だという。しかし女性の体を見たことがなかった彼は女性の裸に男性器が描かれていたという。

この体験が今になって生かされているかといえば微妙だ。文章を構成する力、という点ではブログや怪談、ラジオの長文ネタを書くときぐらいだろうか。TRPGというまさにごっこ遊びの延長線のものがあるものの、機会がないのでやっていない。才能がある人にとっては仕事にできるぐらいのものだがない人にとっては最大の黒歴史である。

ちなみに僕の場合は高校生ぐらいまで続いた。それから人と話すようになってあるときにやってみたら、全然面白くなくなっていたのだ。想像力と引き換えに社会の中に入り込む免許をもらったのだろう。それでいいと思っている。

今朝未明 ライナスの毛布が 燃えました くるんで捨てた 銀紙で巻いて

一人百首:47

話術というものにも色々方法がある。マシンガントークを連発する人もいれば聞き手に周り相手の話をぐいぐい引き出すという人もいる。僕の場合は瞬間的な合気道といってもいいだろう。先陣切って話すことは少ない。相手の話を聞きつつ、ここぞというタイミングで上手い返しを放つというものだ。ただ上手くいくことは少ない。3時間後くらいにこういえばよかった・・と言うものが思いつくものの、そこには胴着はない。しかたなくパントマイムするのみである。

沈黙は金である。基本的に人気のある人は話を聞くことができるひとである。自分の話ばかりする人は子どもっぽいと思われる。ただあまりに喋らないと人見知りなのかなと思われるので適度にしゃべりなさい。

ハイデッガーという人がこんなことを言ったと言う。「人間は不安の中に浮かんでいる。その不安が時として言葉を黙させる。そして沈黙と同時にいっさいの所在物が遠ざかり、かわって無が立ち現れる。人々はただとりとめもないおしゃべりでその静けさを打ち破ろうというのだ」つまり不安から無言が生まれるから、それを他愛ないおしゃべりで打ち破ろうということだろう。不安に真っ向から立ち向かうのもいいが僕みたいなタイプは他愛ないおしゃべりも好きだ。

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今まで見た映画の中で一番好きなシーンが、タランティーノの「パルプ・フィクション」の1シーンである。タランティーノの作風はかなり独特で、作品の中にどうでもいい無駄話をたくさん織り交ぜるというものだ。マドンナのライク・ア・ヴァージンはこんな意味で・・みたいな。これまでの映画の中ではあらすじに関係ない話はいれてはいけない、というものがよしとされてきた。この作風を作ってから全国でそのフォロワーが増加した。監督自身もおしゃべりだ。インタビュー動画を見てみると話術の巧みさがよく分かる。高い声のインタビュアーに「ピクサーの声優にならない?」といったり、インタビューの最後に映画監督の友達が挙げる注目している監督リスト10人を挙げたり、と。

その中の1シーン。主人公はギャングの下っ端。今回の任務はボスのセクシーな妻、ミアを世話すること。この任務に成功するとボスから信頼がおける相手であると認められる。しかし妻と浮気したことが分かるとビルの屋上から放り投げられる。という話を同僚から聞く。デート本番。映画をモチーフにしたレストラン。最初は打ち解けて話していた二人に気まずい沈黙がふと訪れる。気まずい沈黙が楽しめる人は愛し合える人だ、とミアは言う。たった一回食事しただけで?と主人公は答える。ミアがトイレに行ってくる間に話を考えておいて、という。トイレでコカインを吸引するミア。トイレから戻ってきてハンバーガーを食べる彼女に主人公は同僚から聞いた噂話を言う。私が浮気したっていうの?と笑って言うミア。あわてて弁解する主人公に、私は否定も肯定もしていないわよ、というミア。レストランで開かれるツイストコンテスト。出場して優勝し、家に戻ってくる二人。抱きしめ合う二人。ミアが言う。「これも気まずい沈黙?」「さぁ?」この後の展開も大好きだ。しゃべり芸が特徴のタランティーノ映画で(たぶん)唯一「沈黙」が扱われたシーンだ。現在タランティーノと映画プロデューサーはミアを演じたユマ・サーマンにセクハラに関して問題となっている。ファンとしては複雑な気持ちだ。

大学時代に好きな人と晩御飯を食べる機会があった。数人で食べるときはわいわい話せるものの、一対一で向かい合って食べるとなると話す内容もなくなってくる。まさに気まずい沈黙が流れる。その後はただただその人のジャニーズwestにどんな風に殺されたいか、といういかれたトークを聞くことになった。

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君といる ときだけ時が 流れていて 他は眠ってる 2月の洞窟