utsurobune’s diary

短歌を発表してます。

一人百首:9

最近「夏をあきらめて」という曲を聴いた。サザンが1982年にリリースして研ナオコがカバーした楽曲だ。一番最初の「波~音~がひび~けば~」という箇所が覚えていたのだが、最近歌詞を検索して見つけた。それを聴いて驚いたことがあった。

一節に「熱めのお茶を飲み意味シンなシャワーで」というくだりがあるのだが、大好きな曲であるスチャダラパーの「サマージャム’95」という曲の中にも「熱めのお茶だ 意味深なシャワーだ」という歌詞がある。スチャダラの3人はここから引用したのだろう。変な歌詞だな~と思っていたのだが、昔からのファンはこのことも知っていたはずである。何より不思議なのは「夏をあきらめて」は子供の頃にbgmとしてよく僕が聴いていた曲なのだ。記憶の欠落である。

財布を忘れる友人が多い。バスの中に忘れて札だけぬかれたとか、タクシーの中に忘れて届けてくれたというエピソードをよく聞かされる。ご愁傷様とも思うが、僕は財布もスマホも鍵もなくしたことがない。外に出るときはずっと持ち歩くから体の一部のようになっているのだろう。眼鏡も同様。

その代わり、身に着けるものはすぐに忘れる。マフラー、ニット帽はかなりのお気に入りだったが、どちらもこの冬に紛失。おかげで寒い冬を過ごすことになった。

この前は家に出るときに傘を持っていき、(これはなくしすぎて一本しかないから絶対になくさないようにしないと・・)と思いながら出て行く。後に帰宅。次の日また雨が降っていたので傘をさがすとすでになくなっていた。井上陽水状態である。

忘れるものは物だけじゃない。考えごとをしている。アイディアが閃く。

よし、これはおもしろいぞ・・あ、そういえばあれもいいかもしんない・・おしおし、これだけアイディアがでた。さすが俺。天才だな。よし、メモしてリストにしよう。・・・・・・・・・・・・ぜんぜん思い出せない・・・・・・・。

物にしても考えていたことにしてもその辺に持っておくとすぐに忘れてしまう。貴重なものは肌身離さず持っておこう。

 

大学時代授業はほとんど好きじゃなかったが、一個だけ大好きな授業があった。文学系の授業の先生で、一時間半の授業で一つのテーマを取り上げ、それについて解説していくのだが、話も面白いし、扱っている内容がわかりやすいかった。その授業では現代詩人を取り扱っていた。その日は谷川俊太郎の詩について話していた。こんな詩である。

かなしみ

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

何かとんでもないおとし物を

僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅の前で

遺失物係の前に立ったら

僕は余計に悲しくなってしまった

この詩で「僕」はなぜ悲しくなったか?について考えてください、と先生は言った。クラスの人たちは答えたが、ぜんぜん違っていたらしい。

答えは「何をなくしたかを思いだせないから」である。

忘れたいような思い出を実際に忘れてしまうのは幸せだろうか。関東では雪が降っているというのに曲にしろ詩にしろ夏や海を話題にして恐縮である。

道端で 片方だけ残る 手袋が 進化したのが マドハンドです