utsurobune’s diary

短歌を発表してます。

一人百首:32

お風呂に入るときは本を読んでいる。お湯につかってぼーっとするということができないのだろう。たいてい本を読むかスマホを見るかしている。

昨日は宮沢賢治の短編小説を読んだが、その内容がよく分からないものだった。ネタバレになるので注意されたし。

タイトルは「貝の火」というもの。ホモイという名のうさぎが主人公だ(ホモイとはホモ・サピエンスのホモと同じで人間という意味らしい)。ホモイが川岸を遊んでいると鳥の子どもが川でおぼれているのを見かける。ホモイはその鳥を救ってやる。するとその鳥から宝玉をもらう。ホモイの父はそれを大変な宝だという。その宝物を持ってからというもの、森の動物たちはホモイを敬うようになり、ホモイは王様になったような気分になる。するとそこに狐がやってきて、盗んだパンを分け与える。それにおこったホモイの父親が玉を見てみろ、曇っているぞと脅す。そこで見てみると不思議なことに玉はこれまで以上に輝きを増しているのだ。

狐にそそのかされ、ホモイは悪事をどんどん働いていく。そのたびに父親に怒られ、玉を見るように言われるのだが、ホモイが悪いことをするたびに玉は美しく輝きを増していった。だがあるとき、ホモイが狐と共に小動物の動物園をつくろうとしたときに玉に曇りが浮かび、さらに割れてしまう。そこから立ち込めたけむりが目に入り、ホモイは失明してしまう。そんなホモイを父親が励ます場面で物語は終わる。

なんとも後味の悪い話だ。物語自体は新しくできた童話でもありそうだが、このバッドエンドな感じはなかなかないだろう。巻末に河合隼雄さんの解説があったが、その中でもはっきりとした答えは出されていない。

ただ数少ない宮沢賢治の知識の中でいうと、「やまなし」という話が思い出される。あの話の序章に「クラムボン」というものが出てくる。その単語がなんであるのか明かされないままに物語は終わる。アメンボ、泡、光、コロボックル、人間という説まであるらしい。

太宰治宮沢賢治を比較して書かれたエッセイの中で太宰は私小説的に自らの人生について書いたが、賢治は子どものために自分を消して童話を書きつづけた、というものを見たことがある。人々に親しまれるための童話にはこのような読者の想像力で補わなければならないもの、読者が介入する余地のあるものを作る必要があったのではないか。

以前宇宙人の話をしたことがこのブログの中であったが、その本の他の短編にこんなシーンがあった。焚き火を眺める人々。その火を見つめてある人が「ふだんの生活で感じないことが、ありありと感じられる」という。それに対してもう一人は「火のかたちは自由だ。自由だから、見ているほうの心次第でなんにでも見える」という。

いい物語は火のように見ている人によって形を変えるものなのかもしれない。

昼が嫌い 好青年的 空も嫌い 夕方が好き 二十二の夏から