utsurobune’s diary

短歌を発表してます。

一人百首:37

何歳を区切りに人は成長から老化していくのだろう。人は出産というエネルギッシュな生の瞬間から(ひょっとしたら受精の瞬間から)老い・そして死という終点へと進んでいくのである。少年少女という子供の段階から大人・人へとなった瞬間からだろうか。

赤ちゃんや子どもを極端に毛嫌いする人がいる。赤ちゃんの泣き声がうるさい、という人がいる。当然だ、泣き声がよく響くようにできていなければなにかあった時に死んでしまうことになる。礼儀やマナーを知らないその子どもの親に対して怒っている、という人もいる。でもこの世界ほど空気感であるとか恥ずかしいということが重要視されているものもない。その親や子どもたちの環境ではそれが普通のことなのだ。他の人のことを考えられていないと怒るのなら子どもたちに対して怒る人もそうだ。礼儀やマナーが知らない、というか礼儀やマナーが環境によって異なるということを知っていない。彼ら(怒る人)は例えばヤのつく仕事の人が社会のマナーを乱しているときにも同じように注意できるのだろうか。多分目をつぶるだろう。要するに相手が自分より弱い存在でない限り(子どもないし女性)、怒ることができないのだ。犯罪者と同じである。

話を戻そう。

宗教に関する映画「SACRED」を作ったドキュメンタリー映画監督、トーマス・レノンはキリスト教などさまざまな宗教では洗礼・割礼・成人の儀式などのいろいろな儀式が行われる、そしてそれはあの世に行くための通過儀礼であり、儀式であると語っていた。

僕はいわゆる通過儀礼、成人式に参加しなかった。今年晴れ着を着ることができなかった女子たちには申し訳ないけども。わざわざ地元に戻るのがしんどいということもあるが、正直めんどくさかった。自分の黒歴史である高校時代のやつらとおっさんの長話を聞かされることの苦しさったらない。僕みたいな温厚な青年の心の闇が暴走し荒れる青少年の代表として午後のニュースに取り上げられるのはごめんだ。

歳を重ねて正装して話を聞くことで成人になれるはずもないが、「300」のオープニングみたいにホッキョクグマと戦って生き延こる自信もない。

銀行の広告で「クレジットカードを持った。大人になれた気がした」というものがあった。地域の広告で「四国を一周するということは大人になるということ」というものがあった。今はお金を払ってまで大人の免許を欲しがるらしい。

「中学を 楽しく生きる 30の こと」という本 遠くから見る