utsurobune’s diary

短歌を発表してます。

一人百首:28

田舎と都会だと俄然都会好きである。生まれたところがばりっばりの田舎だったということもあるからだろう。都会に行くとうきうきする。住むにしても便利だ。都会サイコー。自然も大して好きではない。草!とか山!とか苦手である。海は唯一好きだ。コンビニと駅が近ければなおいいが。

コーナーがある上に25でもちょろっと書いたことを繰り返してもうしわけないが、また花の話になる。偽善者っぽい上に自分で言うのが恥ずかしいのだが、花が横にあるって「・・・悪くないわね」って感じだ。花っていうか緑ないし植物なんだが。じゅうたんの上で見てて飽きない。動物のように鳴くことも動くことも引っかくこともないのだが、それでいて生きているわけである。しかもその上見る人をなごませるわけである。自分で育ててるっていうのもプラスされるんだろうが。雨が降ると寝腐れするんじゃないか、いや田畑でも降るから問題なかろうと入れたり出したり入れたり出したりのくりかえしである。おかしなものだ。一年草っていうのがちょっと切ないが。

アラビアのロレンス」という映画を見た。1962年の映画だから今から60年近く前の映画だが、スピルバーグの手による「完全版」だからなのだろうか、見た目はぜんぜん今風に見える。スピルバーグが完全版を作ったのにも理由があって、この映画の信奉者だったらしい。言われてみれば砂漠だったり岩場だったりの様子が惑星っぽい!と感じたりオープニングのオートバイはポッドレースか?召使の2人はC3POとR2D2かな?となった。

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ストーリーは実際の第一次世界大戦で怒った出来事を基に描かれている。主人公のT・E・ロレンスというイギリス陸軍将校のアラブ独立戦争についての内容となっている。物語も結末に迫るにしたがってどんどん面白くなっていくのだが、この映画のすばらしさは映像によるものなのだという。画面一面の砂漠の奥のほうから虫みたいなものが徐々に近づいてくる。それがラクダに乗った人なのだ。大きさの表現についてスターウォーズを例に挙げる人が多いが、この映画から影響を受けたんじゃないだろうか。この作品の監督、デヴィット・リーンは観客を見たことのない世界へ放り込むことが多い監督、ということが言われている。まさにそうで一面が砂という世界は地球じゃない惑星のようだ。それに加えてこの映画は前後編に分かれているのだが、序盤の本編に入る前の段階で画面は真っ黒なまま、音楽だけが流れていく。当時としてはよくあることだったそうだが、2017年の僕がこれを体験すると困惑するわけである。早送りもしないまま5分くらいが過ぎる。その間奏の音楽が流れていくと同時に日常の記憶はどんどん削がれていき、スクリーンの中に入っているわけである。

村上春樹のエッセイの中にカポーティという作家の短編について書いた本がある。その中の文章で"think of nothing things,think of wind"、何もないことだけを考えよう、風について考えよう。というものが紹介されていた。そして、筆者がギリシャで風の存在を強く感じたこと、人生で人が風について考えるのはほんの一時期の間だけであるということ。ということを語っていた。そしてつらい事や悲しいことがあるたびにその一節を思い出し、風について考えているのだそうだ。

花とか風とか砂について昔の僕についてすすめてものってくるどころか逆に反発されただろう(今もどこかしらその感じはある)。他の人の味わう花や砂や風の共有はできない。だから分かりにくいし伝えづらいけれどもあえて言うと、普段暮らしているときは(主に僕の場合)、分かりもしないのに屁理屈をこねてモヤモヤすることが多いのだ。例えばいいと思った作品についても、何がいいかについてを補足としていろいろ注釈を入れるのだろう。でも花や風や砂は無意識で良さを感じることができる(自分の世界にないものであるし人が作ったものでないから)からいいと思えたんではないか。

スターウォーズついでにこの言葉でしめさせていただく。

Don't think. feel.

元ネタはブルースリーだけど。

恋しない ジェダイの騎士や 僕たちは 悟らないまま 出し続ける垢