utsurobune’s diary

短歌を発表してます。

一人百首:11

自分の周りでまだ亡くなった人が少ない。もちろんまだ若いからだろうが。周りの友人たちも事故するような無茶をする人たちも少ない。だから「殺す」とか「死ね」とかは結構言いづらい。(もちろん関係なく使っているやつもいるが)。

かなり子供っぽいことをいうが、死が身近じゃない。祖父母も病院で危篤を知った。実家で飼っていた犬も下宿先でいたために死んだことはかなり後になってから知った。自分の死生観というものもはっきりしたものではないのだろうが、自分と同世代の人たちは特定の宗教についている人以外では職業などでは違いはあっても、「死ぬ」というイメージはback spaceキーで文章を消すようにこの世界からいつのまにか無くなっているようで実感はないように思えるのかもしれない。

 

前にも書いたが僕は幽霊を信じない。理屈的に納得がいっていないのだ。幽霊を信じていいならツチノコとかシーサーペントとかも信じてやれよと思う。友人で仏教を信じている人がいる。もちろん信仰の自由だし口出す気も毛頭ない。ただ、悩んでいると「執着は捨てたほうがいいよー」とか「人が生きるうえでの苦しみが・・」と言ってくる。しかも内容が新書一冊分の薄さなのだ。言われなくても倫理の授業で出てくるレベルだ。その上自分は彼女がいるにもかかわらず街コンに出るわ、詐欺に山ほどひっかかるわ、おっぱいパブ好きだわと大晦日に鐘をつききれないほどの煩悩の数なのである。

だからキリスト教とか仏教などを信じている人が多かった時代は気が楽だったろうなと思う。生きる意味なんかや死後のことなどは自分の信じるものに任せることができる。もちろんそれゆえの辛さもあるだろうから知ったようなことも言えないが。

一方、現代の自分がどうしているかというと単に思考停止するだけだ。それについて話題にするのも気も滅入るし、長生きできればいいや。てな具合である。

ある人が言っていた。生きるというのは、湖に広がった波紋のようなものだと。生きると死ぬということは対極ではなく、同じことであるという意味らしい。

意味合い的には分からないでもないが、やっぱり仲の良かった人が死ぬと寂しいし、その後も思い出したりをする。天国というものがあるならどうか安らかにと思う。

ぼーっと生きていると忘れがちだが、いつ交通事故に遭うか本人が予想できたことではないのだ。自分がいつ死ぬか、昨日まで会っていた人がいつまで長生きできるかということはそれこそ神様しか知らないのだ。だから普段会っている人にはできるだけ言っておきたいことを伝えたい。それができないのも僕なのだが。

どんなに激しい生き方をしても、どんなに地味な生き方をしても、幕切れは一回ですごくシンプルなものだ。同じ一回ならできるだけ濃厚なものがいい。しかも残された人にとってポジティブなことを残せたらなおいい。死の同義語は死んだように生きることで、死の対極語はいい生き方をすることだ。押し付ける気はない。

結果的に重いだけのありきたりな文章になってしまった。反省。

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rest in peace.単なるリスナーに過ぎないが、受けた影響は計り知れない。