utsurobune’s diary

短歌を発表してます。

一人百首:29

ライブというものが劇にせよ音楽にせよ比較的体験したことが少ない。ただ、ライブの映像というものはたまに見ることがある。いつも見ていて思うのがアンコールについてだ。自分の中では「おまけ」みたいなものだと思っていたが、5~6曲やることがメジャーな気がしている。ファンとしても「あの曲まだやってないからやるんだろうな・・・」とか思わないもんだろうか。一幕・二幕みたいな構成にしてもいいんじゃないか(あるかもしれないが)。

このブログの特徴というか弱点というか、書いていて思うのは一つひとつの話題についての内容がかなり薄味ということだ。理由は簡単、書いていて疲れるのと表現力がないのとインパクトのあるネタの在庫がないのと読者に対して不親切ということからくるものだ。だから一個一個の戦いでは弱いため似た話題をつなげることになる。結果として物語性がない文章が続くことになる。いかんともしがたいものだ。起承転結ではなく、起起起起である。キキキキ。奇鬼忌祁。なんとも禍々しい。

よくプロのお笑いの話にはオチがあるという。また、話下手な人はオチがないという。正しいかどうかはわからない。ただ、一方的に話を聞かせることのできる物語としての話と、それぞれが話しそれぞれが聞くという井戸端会議のような話での面白さはぜんぜん違ってくると思う。

ある作家の人が語っていた面白い小説・随筆の書き方というものでは文章のイロハ、序破急を無視しろ、起承転結の転から物語が始めてもいい、ということが書かれていた。映画で言えばもっと無茶苦茶で時系列が無視された映画は珍しくなくなってきている。

文章の順番、というものとは少しずれるかもしれないが「今日、ママンが死んだ」「メロスは激怒した」「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」など小説の一番最初の文章にも刺激的なものが多い。ようは編集の問題である。「ママンの元を離れて暮らしてて、、、あ、ママンっていうのは僕がチェコ出身だからなんだけど、、」とか「昔メロスという男とセリヌンティウスという大そう仲のいい友人がおりました」とか「これは僕が雪国で出会った芸者との物語」とかよりずっといいはずだ(文章力の違いというのもあるが)。一文目で読者の心をつかんでから物語を進めていくのだろう。

笑いと順番、という話に戻すととある芸人さんが落語のオチ(サゲ)が好きじゃなかったのだという。その人いわく落語というのはパントマイムと喋りの上手さだけで時間も空間も越える芸なわけである。

さんざんその物語の中で笑ったのに対して、オチのセリフというのは駄洒落のような言葉遊びで、せっかくの話を無駄にしていると思っていた時期があったのだという。ただ、結局オチというものがあることで観客も現実に戻ることができる、その存在として必要と言っていた。

まぁ何が言いたかったかというと、これがベスト!というものなんてないわけである。おちもないのでこのへんで。

死も生も 一度のみなのは つまらない 残機1残る ポップなタナトス